著者;外山恒一
革命家。マルクス主義、アナキズムを経て03年よりファシスト。福岡市在住。九州ファシスト党〈我々団〉総統。サイト「外山恒一と我々団」

2015年12月30日におこなわれた熊本市の結婚式場経営者・有川理(ありかわ・おさむ)氏へのインタビューである。紙版『人民の敵』第16号に掲載され、現在、note にて販売中。

 フランスの学者をまねてフランスの獄を論じる日本の学者

 私が02年〜04年の獄中生活中に詠んだ108首の短歌のうちの1首である。短歌としての出来はまあ、108首中でもあまり良くないほうで、単に“云いたいことを五七五七七に収めてみました”というものでしかないが、含意は、要するに日本のアカデミシャンの“単なる輸入業者”ぶりへの批判である。欧米のススんだポストモダン思想を頑張って背伸びして論じている日本の人文系学者は、当然、斯界の最重要著作の1つであるミシェル・フーコーの『監獄の誕生』についても繰り返し云々している。パノプティコン構造がどうこう、フーコーが論じたヨーロッパの監獄制度の歴史を見よう見まねであれこれ論じてみるわけだ。しかし“本家”のフーコーは同時に囚人待遇改善要求運動の現場活動家でもあるわけで、そんなにフーコー先生をリスペクトしてるんだったら、日本のフーコー学者は日本の監獄制度における第三世界以下の劣悪な人権状況を何とかする運動に身を捧げるべきだし、そもそもフーコー先生を真似てヨーロッパの監獄制度を云々するのはホドホドにして、何よりも日本の監獄制度を批判的に徹底研究すべきはずである。が、そんな学者はほとんど(まったく?)いない。私が常々、日本の大学(とくに人文系)はすべてFランであり、少なくとも文系学部は全部廃止しろと主張している所以の1つでもある。
 それとまったく同じで、日本の左派アカデミシャンは「スクウォット運動」が大好きである。70年代後半から80年代にかけて、とくにイタリアや西ドイツで高揚したアナキズム的な「アウトノミア」運動で見られた戦術の1つで、さまざまな事情で空き家になっている建物を若者たちが勝手に占拠して、住み着いたり、クラブやライブハウスにしたり、海賊ラジオの放送局にしたり、まあ要は運動拠点にしてしまうというものである。そういう流れの中から登場した思想家の1人がアントニオ・ネグリで、この人も80年代以降、ポストモダン思想の“とってもエラい人”の1人ということになるので、日本のFラン人文系学者どもも、こぞってアウトノミアだスクウォットだとワーワー云い出す。しかしFランなので、足元の日本国内で起きている似たような闘争の存在には気づきもしない。
 私がインタビューした有川氏は熊本の企業経営者である。67年生まれで、私の3つ上ということになる。私は90年代半ばに知り合い、実は有形無形のさまざまな支援をしてもらってもきた。インタビュー中でも明らかにされているが、東大在学中に一瞬(1年間ほど)中核派の活動に参加したこともあるそうだ。ちょうど私と知り合った前後から、熊本で有川氏が経営するレストランは成り行きでインディーズ系?の結婚式場に路線変更していく。
 06年、当時の熊本県宇城市長が、有川氏の経営手腕を見込んで、どうにも使い途がなくて困り果てている、バブル期につい県が地元に建ててしまった前衛建築「海のピラミッド」をどうにか活用してくれと泣きついてくる。有川氏は話に乗り、熊本駅から電車で1時間のまさに僻地にあるそのヘンテコ物件を、“西日本最大級のクラブ”としてリニューアルし、驚いたことに毎週末には大繁盛、時に数百人の若者たちがつめかける謎の新名所へと、あっというまに変貌させてしまう。
 大成功、のはずである。
 が、やがて有川氏の試みを後援していた市長が失脚、新しい市長は、前の市長がやったことをことごとく忌み嫌い、“西日本最大級のクラブ”も当然、目の敵にされ始める。以後、なぜか(屋内に)ゲバラやマルコムXやレーニンの肖像が飾られ、「想像力が権力を奪う」などのスローガンが大書されていたりする「海のピラミッド」は、2012年11月の強制代執行(!)による退去に至るまで、事実上の“スクウォット”状態となる。
 本インタビューは、この奇人・有川氏のそもそもの生育歴から、本題の“「海のピラミッド」スクウォット闘争”の一部始終まで、根掘り葉掘り、徹底的に訊いてみたものである。

 海のピラミッド(「天草旅ポータルサイトTRAVEL GUIDE AMAKUSA」より)

その1 note 180円

  • チェ・ゲバラの生まれ変わり
  • 核戦争で世界が終わる!
  • 公害と労働争議の街に育つ
  • 先生が乗った飛行機をソ連が撃墜
  • ラ・サール高校の単調な日々

その2 note 180円

  • ラ・サールの九州での特殊な存在性格
  • 1浪を経て東大、そして中核派へ
  • 最盛期のちょっと後の時期の中核派生活
  • 実は戦旗・荒派にも体験入隊
  • 政府を倒せるなら思想は右でも左でもいい

その3 note 170円

  • インディーズ結婚式に宇城市長が大感激
  • 宇城市ジャマイカ化計画?
  • トンデモ前衛建築をバブル期につい次々と……
  • 一応“フェリー発着場”だったのに航路廃止!
  • して“ジャマイカ計画”とは……?
  • “正しさ”や“社会正義”だけで世の中は変えられない

その4 note 170円

  • いよいよ“海のピラミッド”再建に着手
  • 一家心中事件で市長失脚!
  • 「カネは出せないけど何かやってくれ」でクラブ開業
  • “話が違うじゃないか”ってことばっかり

その5 note 190円

  • クラブ“海のピラミッド”は大繁盛
  • 県の建物にケバラだのマルコムXだのレーニンだの
  • 最終的に負けた原因は結局“3・11”
  • 世界遺産登録の障害物?
  • 強制代執行!
  • “スクウォット”闘争は丸5年間に及んだ

 有川理(ありかわ・おさむ)氏は熊本の企業経営者である。67年生まれで、外山の3つ上ということになる。外山は90年代半ばに知り合い、実は有形無形のさまざまな支援をしてもらってもきた。インタビュー中でも明らかにされているが、東大在学中に一瞬(1年間ほど)中核派の活動に参加したこともあるそうだ。ちょうど外山と知り合った前後から、熊本で有川氏が経営するレストランは成り行きでインディーズ系?の結婚式場に業種変更していく。
 06年、当時の熊本県宇城市長が、有川氏の経営手腕を見込んで、どうにも使い途がなくて困り果てている、バブル期につい県が地元に建ててしまった前衛建築「海のピラミッド」をどうにか活用してくれと泣きついてくる。有川氏は話に乗り、熊本駅から電車で1時間のまさに僻地にあるそのヘンテコ物件を、“西日本最大級のクラブ”としてリニューアルし、驚いたことに毎週末、数百人の若者たちがつめかける謎の新名所へと、あっというまに変貌させてしまう。
 大成功、のはずである。
 が、やがて有川氏の試みを後援していた市長が失脚、新しい市長は、前の市長がやったことをことごとく忌み嫌い、“西日本最大級のクラブ”も当然、目の敵にされ始める。以後、なぜか(屋内に)ゲバラやマルコムXやレーニンの肖像が飾られ、「想像力が権力を奪う」などのスローガンが大書されていたりする「海のピラミッド」は、2012年11月の強制代執行(!)による退去に至るまで、事実上の“スクウォット”状態となる。
 この奇人・有川氏のそもそもの生育歴から、本題の“「海のピラミッド」スクウォット闘争”の一部始終まで、根掘り葉掘り、徹底的に訊いてみた!
 インタビューは2015年12月30日におこなわれ、紙版『人民の敵』第16号に掲載された。
     ※     ※     ※

 チェ・ゲバラの生まれ変わり

外山 企業家としての立場もあるでしょうし、今回は匿名・仮名のインタビューでいいんですが、やっぱり内容的に、そもそもの生い立ちというか活動歴というか、触れざるを得ないと思うんです。だってフツーの人がやたらと、まあ今やファッション・アイテムと化してもいるゲバラやマルコムXまではともかく、レーニンのポスターなんかそこらへんに貼りたがったりしないでしょ?(笑) 後でそういう話が出てきた時に、やっぱり何か特殊な背景を持った人なんじゃないかと読者も勘ぐるだろうし、実際そうなんだから、いっそ最初から説明しといた方が話が早い。
有川 もはや実名で構わないけどね。ツイッターもフェイスブックも実名で、いろいろやってることももう書いちゃってるし、“海のピラミッド”で検索すれば、私に対する批判なんかも実名で出てくるし(笑)。
外山 ともかく本題の“ピラミッド”の話に入る前に、それほど詳細にではなくていいんで、ざっと活動歴等から訊いておきたい、と。
有川 もう日本も終わりそうだし、とくに隠さなきゃいけない話もないよ(笑)。
外山 世代の確認の意味もあるんですが、生まれは67年でしたっけ?
有川 うん、67年の12月……。
外山 あ、そうだ(笑)。
有川 12月8日(笑)。チェ・ゲバラが死んでちょうど2ヶ月後ぐらいですね(笑)。
外山 そう云われてみれば……つまりゲバラの生まれ変わりである、と(笑)。
有川 たしか67年の10月9日だかに、あの人はボリビアの山奥で戦死してるでしょ。
外山 その約2ヶ月後に熊本で誕生……。
有川 いや、大牟田(福岡県の最南部で、熊本県との県境)。
外山 そうでしたね。
有川 12月8日生まれだから、誕生日と云えばもう、テレビでは必ず日米開戦、真珠湾攻撃の回顧特番なんです(笑)。誕生日のたびにそういう映像を刷り込まれてたら、やっぱり影響されるよ。
外山 ジョン・レノンは……当時はまだ生きてるのか(笑)。
有川 暗殺されたのが80年でしょ。中1の時だな。
外山 じゃあ中1以降はさらに“ジョン・レノン特集”も加わって、誕生日のたびに“真珠湾”だの“ジョン・レノン”だの……。
有川 両方だよね。まさに“戦争と平和”(笑)。象徴的な日というか、特異日というか、そういう日付になってる。

 核戦争で世界が終わる!

外山 実際に“目覚める”のはいつ頃なんですか?
有川 うーん……そもそも冷戦の真っ只中でしょ、とくにその後、80年代に入ってからの方がむしろ。
外山 “レーガン、サッチャー、中曽根”の時代になりますもんね。
有川 『風が吹くとき』(「スノーマン」などでも知られるイギリスの児童文学作家・漫画家のレイモンド・ブリッグズが82年に発表した漫画を原作とした86年製作の反核アニメーション映画。ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズが音楽を担当し、デヴィッド・ボウイが主題歌を担当。日本でも87年に公開され、大ヒットした。外山も高校時代に観て感動した記憶があり、実は当時買ったパンフも持ってたりする)とか、あと“第三次世界大戦”の架空戦記ものとか流行って……NATOの司令官がそういうのを書いたりしてたんですよ(ジョン・ハケットが78年に発表しベストセラーとなった『第三次世界大戦──1985年8月』のことと思われる。その後の“架空戦記”ブームの先駆けの1つとなった)。NATOとワルシャワ条約機構軍が衝突したらどうなるか、みたいなシミュレーション小説が本屋にいっぱい並んでた。
外山 『渚にて』って映画もありませんでしたっけ?
有川 あれはモノクロだし、50年代じゃないかな。
外山 あ、そうか。80年代初頭に他にも有名な映画が何かあったような気がするんだけど……(アメリカで83年に高視聴率を記録し、日本でも翌84年に劇場公開されたテレビ映画『ザ・デイ・アフター』のことを云おうとしていた。やはり“第三次世界大戦”的な核戦争もの。日本での映画興行成績は芳しくなかったが、同年中の「日曜洋画劇場」でのテレビ放映は、現在でも同番組の歴代3位の高視聴率となっているようだ)。
有川 あと、『復活の日』とかね(小松左京・原作のSF映画。米軍が開発したウィルス兵器を積んだ飛行機が墜落し、感染拡大して人類はほぼ絶滅、かろうじて極寒の南極にいた者たちだけが生き延びるが、観測で北米での大地震の発生が予想され、米ソが遺した“自動報復システム”が、まずアメリカのそれが地震を自国への核攻撃と誤認することから連鎖的に作動し始め、南極も含む世界中に何百発もの核ミサイルが降りそそぐ危険性が高まり……という話。原作は64年に書かれたが、80年公開の角川映画版も大ヒットした)。とにかく“世界が終わる”的なネタが多かった。しかも多くの場合それは、自然災害とかよりも“人間のせい”で(笑)。
外山 60年代にフルシチョフとケネディが出て、冷戦がいったん“雪どけ”的に緩和してたのが、ソ連もフルシチョフが失脚してブレジネフの時代(64〜82年)になって、スターリン体制に逆戻りしちゃうし、西側もやがて“レーガン(81〜89)、サッチャー(79〜90)、中曽根(82〜87)”の時代になって……。
有川 うん、そうだよね。
外山 雰囲気的には80年代に入ってからの方が、いかにも“冷戦”っていう感じが強まる。レーガンが“スター・ウォーズ計画”とか云い出すし(笑)。
有川 軍事雑誌なんかも結構売れてたと思うよ。私も小学生の時にマンハッタン計画(第二次大戦中のアメリカの原爆開発計画)の本を買って熟読してた(笑)。“NBC兵器がどうこう”って新書を図書館で借りて読んだりもしたな。“核(ニュークリア)、バイオ(生物兵器)、ケミカル(化学兵器)”ね。だから小学生の時点でもう、“サリン”とか“マスタード・ガス”とか知ってたもん(笑)。原爆の基本的な原理も知ってたね。

 公害と労働争議の街に育つ

外山 ラ・サール(云わずと知れた全国有数の名門校。鹿児島市にある)は中学校からですか?
有川 いや、中学校はまだ大牟田の普通の公立。中学生の時は、夏休みの自由研究で“宇宙移民”について調べたりしてた(笑)。“スペース・コロニー”ってやつ。
外山 それは本当に“自由”研究で? 先生にテーマを与えられたとかではなく……。
有川 うん。『第三の選択』(イギリスのテレビ局が77年にエイプリル・フール用に製作した、地球温暖化の危機を察知した米ソが極秘裏に一部エリートのみでの火星移住計画を進めている、とするフェイク・ドキュメンタリー。日本でも翌78年にテレビ放映されたが、82年には今度はトンデモ陰謀論者の矢追純一の演出で、あたかもシリアスなドキュメンタリーであるかのような体裁で再びテレビ放映された)なんかにも影響されてたと思う。あと、例の“ローマ・クラブ報告”も70年代からあったし(世界各国の有識者を集め、72年の「成長の限界」を皮切りに、資源枯渇、人口増加、軍備拡張、経済問題、環境破壊など、グローバルな諸問題に関するさまざまのレポートを発表、とくに環境問題への関心を広く喚起した)、とにかく環境破壊とかいろんな問題で人類は地球に住めなくなるんじゃないか、っていうさまざまな……脅し?(笑) 核戦争は迫ってるわ、石油は枯渇寸前だわ、と煽られまくってた、そういう時代ですよ。ガンダムなんかも、スペース・コロニーがどうこうって話でしょ。
外山 あれも80年前後ですよね。
有川 うん、70年代のうちじゃないかな(いわゆる“ファースト・ガンダム”、第1シリーズのテレビ放映は79年〜80年)。まあ全体的にそういう時代だったし……それに大牟田って、そもそも労働争議の街なんだ(59〜60年、福岡県大牟田市から熊本県荒尾市にかけて広がる三井財閥系の三池炭坑を舞台に、いわゆる三井三池闘争、“総資本vs総労働の闘い”とまで称され、60年安保闘争と共に戦後民主主義の高揚と終焉を象徴する巨大な労働争議が起きた)。
外山 そうか(笑)。
有川 九州の中でもかなり特殊な地域だと思う。60年当時ほどの高揚はなくても労働争議は続いてるし(閉山は97年)、公害問題も起きるし……私も喘息だったもん。小児喘息。
外山 それはきっと単に前世のゲバラから引き継いだだけですよ(笑)。ゲバラの喘息持ちは有名じゃないですか。
有川 いやいや(笑)、やっぱり公害病ですよ。当時の大牟田の川って、油やら何やら、いろんな有害物質で7色だったぐらいでさ。
外山 問題化もしてたんですか?
有川 もちろん。山手の方に化学工場がたくさんあって、そこで石炭をいろいろ化学的に加工してた。港の周辺も工業地帯だし、両方に挟まれる形で市街地がある。
外山 住んでる人たちも大半はそれらの関連で雇われて……。
有川 多かったね。……あ、そうそう。大牟田の市街地に有名な塾があって、ラ・サールとか久留米附設(久留米大学附設中学・高校。福岡県久留米市にある九州第2の名門校。ラ・サールには全国から、久大附設には九州全域から、外山の出身校である福岡市の西南学院中が九州第3の名門中学で、福岡都市圏全域から生徒が集まる、ぐらいのイメージでおおよそ合ってるはず)への合格率が異様に高いんだよ。それには理由があって、石炭がまだ日本の花形産業だった頃には、三井のお偉いさんたちが出世していく過程での栄転先がまず大牟田だったんだ。それで東大卒のエリート社員たちがたくさん転勤してくるでしょ。その子弟が通う塾なんだね。だから大牟田って、人口に比して、あるいは田舎の割に、ものすごく教育水準が高かった。

 先生が乗った飛行機をソ連が撃墜

外山 有川さんの家は、もともとレストラン経営ですよね。小中学生の頃にはすでにそうだったんですか?
有川 いや、当時はまだ、まあ飲食系ではあったけど、バーとかクラブとか。両親よりさらに前の代は、料亭……とは云っても、かなり怪しい“料亭”なんだよね。
外山 ああ、いかがわしい感じの(笑)。
有川 うん、フスマを開けると布団が敷いてあるような(笑)。
外山 熊本に移ってくるのはいつ頃なんですか?
有川 やがてレストラン経営を始めるわけだけど、順調に伸びて大牟田・玉名(熊本県北部)・熊本の3店舗を持つようになって……だけど大牟田の街がどんどん衰退していくでしょ。大牟田の最盛期は、人口が16万人以上いたんだけど(もっと多く、大争議が勃発した59年の人口約20万9千人がピークだったようだ)、それが今や10万人を切りそうなぐらいにまで落ちてる(15年現在約11万7千人)。人口が3分の2ぐらい落ち込む(実際にはほぼ半減である)ってのは、相当な衰退だよ。まあそういう趨勢を見越して、ジワジワと移ってきたわけだ。
外山 じゃあ熊本の前に玉名時代もあるんですか?
有川 うん。
外山 3店舗あって、“本部機能”を担う店が南下してきたような……。
有川 そうだね。本部というか、メインの店が、最初は大牟田だったのが、玉名になり、熊本になり……。
外山 有川さん自身は進学で実家を離れてる時期に、その“移動”が進行するのかな?
有川 私は中学まで大牟田にいて、高校から1人で鹿児島に。
外山 本格的に左傾するのは、やっぱり鹿児島のラ・サール時代ですか?
有川 “左傾”ってわけでもないんだけど……さっき云ったように、冷戦時代でしょ。中学生の頃にはすでにガスマスクとか入手して、持ってたもんね。化学防護服まで持ってた(笑)。
外山 かなりイッちゃってるお子さんですね(笑)。
有川 唯一ガイガー・カウンターは持ってなかったな。……ガスマスクは今でも持ってるよ。
外山 その頃に買ったやつを?
有川 うん。(3・11以後の)今となってみると、ガイガー・カウンターを買っておくべきだったね(笑)。とにかく中学生段階ではそういう感じで、将来の進路としても、防衛技術研究所(現在の防衛装備庁)とか、防衛庁管轄の兵器開発の部署に行きたいと考えてた。だけどやがて高校時代に吉本隆明を読んだり……時期的には何年頃になるのかな?
外山 えーと、ぼくの高校時代が86年からだから、3つ上ってことは……83年に入学して86年に卒業って計算になりますね。
有川 80年代半ばだな。ちょうどちょっと左翼っぽいのが流行って、本多勝一とか……。
外山 はいはい。反核運動がすごく盛り上がったのも、82年から83年にかけてでしょう。
有川 あと、第三書館あたりからサブカルっぽい新左翼本がたくさん出たりした。
外山 “全共闘ブーム”もその頃ですよね。『全共闘グラフィティ』(84年に新泉社から刊行された記録写真集的な回顧本)なんかが売れたっていう。
有川 そうそう。そういうのに感化されたところはあると思う。……チェルノブイリはいつだっけ?
外山 86年です。
有川 ってことは、もう卒業した後だったかな?
外山 4月ですから、そうですね。卒業直後のはずです。
有川 ……あ、思い出した。ラ・サールって、ミッション系でしょ。本部がカナダにあるんだ。夏休みにそこへ行ってる先生がいて、新学期が始まるんでまた日本に戻るために乗った飛行機が、撃墜されちゃったんだよ。大韓航空機事件(83年9月1日、ニューヨーク発・アラスカ経由・ソウル行きの大韓航空の旅客機が、予定の航路を外れ、ソ連の領空を侵犯して撃墜された。日本人28名を含む乗員乗客269名全員が死亡。87年に北朝鮮の工作員が大韓機を爆破し墜落させた事件とはまた別の大事件)。
外山 ええっ!?
有川 あれにラ・サールの先生が1人乗ってたの。高校1年の時かな。
外山 それはまさに、冷戦を身近に……(笑)。
有川 そうだよなあ。先生が乗った飛行機が“撃墜”されるんだもんね、ソ連軍機に(笑)。

 ラ・サール高校の単調な日々

外山 ラ・サールなら同級生とかにも本格的に左翼っぽい人とか、いるんじゃないですか?
有川 そうでもないよ。田舎にあるし、そもそも“高校”というより予備校みたいなところだしね。いい大学に進むために身を置いてるだけだから、愛校心のようなものを持ってる人もほとんどいないような学校。
外山 ぼくが高校時代に連絡を取り合ってた1人は、ラ・サールの人でしたよ。わりと本格的に左傾してて、やがて東大ノンセクトになって、湯浅誠なんかと一緒に活動する人。
有川 湯浅誠って、どういう人だっけ?
外山 ホームレス支援の運動をやってて、“日雇い派遣村”の“村長”として有名になって……。
有川 ああ、民主党政権の時に……。
外山 うん、内閣参与か何かやってた。あの湯浅誠とたぶんずっと同志みたいな関係にある、稲葉剛って人です。やっぱり貧困問題で本も何冊か書いてる。ぼくも後に参加して影響を受ける、全国の高校生の新聞部員たちの東京での合宿イベント(高校生新聞編集者会議。70年代から代替わりしながら90年代半ばまで続いた。外山は88年夏に参加、同年末にラジカル派が分裂し、外山もその「全国高校生会議」派の中心メンバーの1人となる。紙版『人民の敵』第9号の“沢村真司”インタビュー参照/後註.『全共闘以後』も参照)にも、鹿児島から参加してたらしいことも後で知るんだけど……ぼくは高校時代に電話で連絡を取り合ってただけで、会わずじまいなんですが、彼はぼくより1つ年上でしたね。
有川 じゃあ私の2つ下か……。
外山 有川さんが3年の時に1年、ということになります。
有川 知らないなあ。まあ、演劇部の人たちは、“左翼的”とまでは云えないかもしれないけど、ちょっとそういう雰囲気はあったよ。……高校を中退して大検を受ける、みたいなのは私よりちょっと下の世代でしょ?
外山 そうですね。制度自体は昔からあったはずだけど、そういうルートが広く認知されて、昔ながらの不良タイプではない普通の生徒や、優等生たちまで高校をどんどん辞め始めるのは、ぼくや、ぼくの1つ上の代ぐらいからです。あのドラマの影響も大きかったと思う。「もう高校はいらない」っていう……。
有川 菅原文太がお父さん役のやつね。
外山 うん、それです(笑)。
有川 やっぱり私の高校時代より少し後だ。
外山 ぼくが高校に入りたての頃に流行ってた気がする(記憶違い。「中卒・東大一直線 もう高校はいらない!」は、84年春、したがって外山は中1〜2、有川氏は高1〜2の頃に全9回の連続ドラマとして放送された。中学校の管理教育に反発した主人公が、高校に進学せず、大検経由で東大に現役合格するという、父親役のモデルである磯村懋の『奇跡の対話教育』を原作とする物語。主人公の少年は坂上忍が演じた)。
有川 私も高校2年ぐらいの時に、もう辞めちゃおうかな、とも思ったんです。でも大検を知らなかったもんで……。1、2年、遅く生まれてたら、たぶん辞めて大検を受けてただろうな。
外山 高校時代はどんな感じというか、何を考えて日々を送ってたんですか?(笑)
有川 中学の頃からもう、授業を聞いてノートをとったことがない。勉強は全部、自分でやってたんです。高校の時もそうで、だから学校に通う意味があんまりないと思ってた。
外山 もし大検を知ってれば辞めてたかもしれないというのは、単純に学校がつまんなかったということですか?
有川 学校的なものにすごく違和感があって、とにかく学校が嫌いだったね。高校3年の時なんか、出席日数もギリギリなんだ。それはもちろん、計算して、卒業するための最低限の出席日数だけ仕方なく行った。
外山 だけど県外からラ・サールに通う場合は、寮じゃないんですか?
有川 2年生からは下宿に住んでたから、学校をサボるのもわりと簡単。

     ※     ※     ※
 ラ・サールの九州での特殊な存在性格

外山 鹿児島におけるラ・サールの存在って、かなり特殊ですよね。そもそもあんまり“鹿児島の高校”って感じがしない。
有川 実際ヨソから来た人たちばっかりだもん。3分の2は県外から来てたと思う。しかも卒業するとまたヨソへ行っちゃう。
外山 たしかに。“地元に根づいてる”って感じもしませんね。あの谷山(鹿児島市の副都心的な、ラ・サールからもほど近い繁華街)の辺りが、ラ・サールの生徒たちの一種の“学生街”みたいになってるわけでもないんですか?
有川 たまにメシを食いに行くぐらいかな。地域との交流はあんまりない。たまたまラ・サールがあるからその辺に住んでるだけで……。
外山 やっぱり妙な存在だと思うなあ。九州にある“全国区”のものって、たぶんラ・サールだけなんです。九州大学なんか、東大や京大と違って“地方”的な存在でしかないでしょう? しょせんローカルな大小の結集軸があちこち散在してるだけで、ラ・サールだけが特殊。しかもそれが福岡ではなく鹿児島にあるっていう(笑)。
有川 ラ・サールからは、九大に行くとしても医学部だけだもんね。それ以外の、例えば熊大医学部に行くとかってのは、イレギュラーなもの。
外山 勉強をサボった奴が……。
有川 うん(笑)。
外山 ぼくも経験上よく分かるけど、進学校に行くと優等生ばっかり集まってて、その中でまた競争になるから、それまでの優等生としてのアイデンティティが揺らぐんですよね。もうなかなか成績で1番になれたりしないから、モチベーションを見失って、勉強しなくなって、やがて優等生コースから脱落してしまう。普通の公立中学に通ってればずっと優等生でいられたかもしれないのに、名門校に入ることで却って“東大”とかが遠くなる(笑)。
有川 まあそれでもラ・サールで落ちこぼれたとしても、そこらへんの国立の大学にはまず入れるけどね。
外山 鹿児島の他の高校との交流はないんですか?
有川 ないね。やっぱりあまりにも異質なんだろうな。部活をやってる人には多少あるかもしれないけど……。
外山 そういえば加治木高校(外山が通った“2つ目の高校”。鹿児島市から約30キロ離れた郡部にある)の文芸部は、ラ・サールの文芸部との交流もあった。ぼくはすぐ問題を起こして追放されちゃったんで、その場面には立ち会わなかったけど(笑)。
有川 でもやっぱりいろんな面でレベルが違いすぎるし……。
外山 おそらく他校の人は、かなりヨソヨソしい感じで接してきますよね(笑)。
有川 それにさっきも云ったように、実際ヨソ者ばっかりなんだもん。東京から来てる人、関西から来てる人、いっぱいいた。
外山 稲葉さん(後註.69年生まれで、東大ノンセクト経由の“反貧困”活動家・稲葉剛氏。高校時代に外山とごく薄く接触があった)もたしか広島の人だったな。
有川 あと、医者の息子ってのが多かったり、高級官僚の息子も多い。私がわりと親しかった友達も、防衛庁の官僚の息子だった。そういう家庭環境の高校生なんか、鹿児島にまず他にいないもんなあ。福岡だってそんなにいないでしょ? なぜかそういう特異な共同体が、鹿児島の郊外にポツンと存在してるっていう……(笑)。
外山 鹿児島市議選に出た時も、ラ・サールの生徒だけやたら反応が良かった(笑)。
有川 あの時に外山君が選挙用に借りてたアパートのすぐ裏の辺りに、私は下宿してたんですよ。

 1浪を経て東大、そして中核派へ

外山 ……部活はやってたんですか?
有川 やってない。
外山 高校時代のうちに、もうかなりはっきりと左傾するんですか?
有川 うーん……そもそも私は左翼だったことがあるのかどうか、我ながらずっと疑問なんです(笑)。高校2年の時点でもう東大に合格できるような成績で、英語と物理は全国模試とかで常に1位だったし、全科目総合でも10位以内にいたから、わざわざ学校に通う意味も感じられなくて、授業も聞いてないし、ノートもとらないし、そもそも学校にあんまり行かないし(笑)、完全に変人だよね(笑)。
外山 何をして日々を過ごしてたんですか(笑)。
有川 本を読んだり、あとは散歩かなあ。
外山 何を読んでたんですか?
有川 それはさっき云ったような第三書館の本とか、本多勝一とかだよね。それぐらいの学力があれば英語の本も読めるし、バートランド・ラッセルとかは原書で読んでた。あとは映画の原作本とか……本多勝一は大学に入ってからだったかな? 
外山 東大には現役で入るんですか?
有川 それが1回失敗するんです。その年の数学が、なんかヘンな出題で、数学マニアみたいな人以外はあまり得点できないようなものだった。それで落ちちゃう。
外山 数学はあまり得意な方ではなかったんですか?
有川 そういうわけではないんだけど……普通の出題なら大丈夫だったと思う。浪人時代は全然勉強しなくて、学力は当然落ちてたはずだけど、それでも翌年は受かったわけだしね。
外山 浪人時代は東京ですか?
有川 うん。駿台予備校なんだけど……やっぱり通ってないんだ(笑)。駿台に行かずに、その近くの神保町の古本屋にばかり通ってたなあ。
外山 中核派に接触するのは大学に入ってからですか?
有川 浪人時代は西日暮里に住んでたんだけど、大学に入ってから杉並に引っ越した。荻窪ね。杉並は中核派の拠点でしょ。ちょうど都議選をやってたんだ。それ以前の段階で「やっぱり革命が必要だ」と思うようになってたから、こっちから接触したの。
外山 都議選というのは、要するに長谷川英憲(67年から89年まで杉並区議を6期、89年から93年まで東京都議を1期務めた、中核派の議会政治部門を代表する人物。おそらく有川氏が「都議選」と云っているのは記憶違いで、年代から考えて杉並区議選であったはずである)の選挙ですね。
有川 うん。
外山 たしか都議も当選して、1期務めてますよね。
有川 都議になってからは、結柴誠一って人が後継の区議になってるし(91年以来、都議への転身を図り失敗した一時期を除いて、現在まで通算7期を務めて現職)、杉並区はずっと中核派の拠点なんだ(他に新城節子という女性区議もいる。ただし06年の中核派の分裂に際して結柴・新城は中核派を離脱)。
外山 「都革新」(都政を革新する会。中核派の選挙用政治団体)ってやつですね。今でもそこにあるのかどうか知らないけど、高円寺駅の近くに事務所があったのを覚えてます(現在は上高井戸に移転しているようだ)。
有川 で、こっちから接触して……。
外山 それは前進社(中核派の公然拠点)に電話して、とかではないですよね?(笑)
有川 駅前で選挙運動をやってるところに、「ちょっと興味があるんですけど」って話しかけた。

 最盛期のちょっと後の時期の中核派生活

外山 「革命が必要だ」と考えるようになったのは浪人時代ですか?
有川 いや、やっぱり高校の時だと思う。世の中に対して違和感を持って、これは引っくり返さなきゃダメだ、って。
外山 有川さんの方から自主的に近づいたってことは、よくある、たまたま入学した大学がナニナニ派の拠点で云々ってパターンとは違いますよね。他の党派と比較検討した上で、中核派を選んだんですか?
有川 もちろん選んだわけだけど、あれこれ比較した上でというより、その時期に一番メジャーで“革命に近い”かな、と思っただけですよ(笑)。
外山 存在感?
有川 一番派手にやってた頃だしね、中核派自身としても。だって皇居にロケット砲を飛ばすわ……。
外山 電車は止めるわ……。
有川 そうそう(笑)。
外山 自民党本部は焼き払うわ(笑)。
有川 革命に一番近そうな気がするじゃないですか(笑)。
外山 1年浪人したってことは、87年入学になりますね。うん、たしかに84、85年ぐらいに中核派は大暴れしてたんですもんね(84年には火炎放射器を積んだトラックで自民党本部を襲撃して半焼させた。85年には首都圏と関西の国鉄のケーブルを数十ヶ所で切断、台東区の浅草橋駅を焼き討ちしたり、革労協などと共に三里塚で機動隊と大規模な市街戦を演じたりした)。
有川 うん、とにかく派手だった。
外山 だけど有川さんが入った頃は、むしろ落ち込んでたんじゃないですか? 派手にやりすぎて疲弊しちゃって……。
有川 大量に逮捕者を出したからね。
外山 小西事務所(中核派が組織した数名の“反戦自衛官”のリーダー格だった小西誠の活動事務所)に出入りしてたんでしたっけ?
有川 行ったことはあるけど……。
外山 後に「秋の嵐」の中心人物になる太田リョウ(紙版『人民の敵』第10号参照/後註.『全共闘以後』も参照)が、ちょうど小西事務所にいた時期と重なってるんじゃないかな。
有川 会ってる可能性はある。だけどお互い本名を知らないし、誰が誰だったのか分からない。
外山 まあ、そういうものなんでしょうね。
有川 私がいた時期の最大決戦は、天皇の沖縄訪問阻止闘争。結局は天皇が病気で倒れて、代わりに皇太子(現・天皇/後註.現・上皇)が行ったわけだけど、あれが最大の盛り上がりだったな。
外山 87年ですね。その天皇訪沖に合わせて「秋の嵐」が結成される。
有川 私もその時期は3ヶ月ぐらいずっと沖縄にいたんです。前進社の沖縄支社に防衛隊として詰めてた。
外山 ヘルメットをかぶって?(笑)
有川 うん(笑)。ガサ入れとか、ありましたよ。
外山 東大でも、中核派の“東大細胞”的な?
有川 いや、東大は革マルとか民青が強いから……。
外山 公然登場はできない感じなんだ。
有川 だから法政に行ったり、三里塚に行ったりだよね。で、秋に沖縄に行く。たしか10月ぐらいだったでしょ?
外山 だと思います。「秋の嵐」が、名称のとおり当初は9月から11月にかけての“臨時共闘”組織として結成されたわけだし。
有川 沖縄国体のソフトボール会場で日の丸を引きずり降ろして焼いた事件があったじゃないですか。
外山 知花昌一さんの決起ですね。
有川 あの時、私、現場にいたんです。
外山 へー(笑)。
有川 右翼と乱闘になったんだけど、そこに私もいた(笑)。
外山 中核派にはいつ頃までいるんですか?
有川 その年のうちか、翌年に入ってすぐくらいまでです。この組織じゃ1万年頑張っても革命は起きないと思って(笑)。
外山 あ、意外と短いんだ。
有川 うん。その後はこっち(熊本)に戻ってきて、フツーに家の仕事を手伝って過ごし始めた。

 実は戦旗・荒派にも体験入隊

外山 いつ戻るんですか? 87年の入学だから……。
有川 2年目かな。大学は1年で辞めたし。
外山 ん? 卒業してないんだ。
有川 中核派を辞めた後も1年ぐらいは東京でブラブラしてた。やがて熊本に戻ってきて、学費も未納で、踏み倒して(笑)。「人間として恥ずかしいと思うなら払ってください」みたいなことを云ってきたけど、取り合わなかった(笑)。
外山 学部はどこでしたっけ?
有川 理科I類。
外山 それは何学部にあたるんですか?
有川 東大の場合は、まず教養学部に入って、後で成績とか希望によって専門に振り分けられる。とくに理Iは、どこにでも行けるんだ。成績との兼ね合いもあるけど、工学部でも理学部でも、進路は後から決められる。そこらへんの気楽さがあるから理Iに入ったの。なかなかいいシステムだと思うよ。
外山 入学時点では、漠然とでも将来設計はあったんですか?
有川 何にもない(笑)。
外山 まずは……革命?(笑)
有川 そもそも入学式に行ってないし、オリエンテーションにも行ってないし、とことんやる気がないよね(笑)。授業も1週間しか行ってない。ひととおり、いろんな授業を覗いてみて、あ、これはつまらん、と思った。やってることがカビ臭いというか……。
外山 “象牙の塔”的な?
有川 それですぐ行かなくなった。
外山 じゃあ東大にもほとんど通わずじまい?
有川 うん(笑)。
外山 で、通わずに中核派の活動を1年ぐらいやって……。
有川 あと実は戦旗派にもいたことがあるんだ(笑)。荒派だね(紙版『人民の敵』第5号に登場した三浦哲史氏のいる戦旗・西田派と対立する党派。紙版『人民の敵』創刊号および第2号に登場した佐藤悟志氏が属していたのは有川氏と同じく荒派のほう/後註.三浦氏については『デルクイ02』でのインタビューも、佐藤氏については『全共闘以後』も参照)。で、結局は中核派に行く。
外山 あ、荒派にいたのは中核派より前の話なんだ?
有川 いや、ほぼ同時期。最初の頃にちょっと迷って、“お試し期間”的に二股をかけて……。
外山 体験入隊?(笑)
有川 そんな感じ。
外山 それで荒派と中核派を比べてみて……。
有川 やっぱり中核派だな、と。それで中核派で1年ほどやってみたわけだけど、中核派を辞めてからはしばらく燻ってた。政治的なことからはまったく身を引いて……やがてこっちで外山君と会うんだね。
外山 ぼくが最初に会ったのは94年とかだと思う。
有川 じゃあ、かなりブランクがあるな。
外山 すでに熊本に戻ってきてから何年か経ってたってことですよね? この場所(現在は有川氏が経営する結婚式場)はあったけど、まだローソンでしたもん。
有川 そうそう。つまりブランクが4、5年あるんだね。
外山 87年に入学して、東京にいたのが仮に2年として、89年には熊本に戻ってきたことになりますね。
有川 沖縄からの帰りの船でブラック・マンデーのニュースを聞いた。ニューヨークの証券市場の暴落。あれも87年かな?
外山 だと思います。筑紫丘高校(福岡の、外山が通った“3つ目の高校”)で担任があれこれ云ってたのを覚えてるから、87年の2学期だ(10月19日のようである)。
有川 その翌年にはもう政治活動は辞めてた。

 政府を倒せるなら思想は右でも左でもいい

外山 辞めた後は……。
有川 しばらく東京でブラブラしてから熊本に戻ってきて、ここに店ができたのが91年。
外山 ああ、そういえば“since 1991”ってココの看板に書いてありますね。
有川 たぶん戻ってきて2、3年でココができて、さらに2、3年後に外山君と知り合う。
外山 ぼくが初めてココに来た時には、この建物の中にローソンがあって、隣りにも大きな建物があって、営業はしてなかったけど、カラオケボックスみたいになってましたよ。
有川 うん。1つの建物をいろいろ仕切って、カラオケとか、クラブとか、カジノとかをやるスペースになってた。92年ぐらいはそんな感じだったね。
外山 たぶんそれがいったん中断して、ちょうどローソンだけ営業が続いてた時期に初めて来たんだと思うけど……そもそもあれはどういう業種だったんですか?
有川 アミューズメント施設かな。1階が、クラブというか、ディスコ? 合法的なカジノをやるスペースもあって、上の階はカラオケ。それが今は家具屋に貸してる隣りの建物で、こっちの建物にはレストランとローソンがあった。
外山 ぼくが初めて来た時点では、かつての“3店舗”とかではなくて、ココだけになってたんですか?
有川 うん。大牟田と玉名の店はもう売却してたね。わりと高い値段で売り逃げることができた。
外山 ぎりぎりバブル期のうちに?
有川 いや、バブルは崩壊してたけど、まだ九州の田舎にまでは路線価の下落とかが波及してなかったぐらいの時期。で、ココで最初に結婚式をやったのが95年の7月7日。平成7年だから、スリーセブンの日でね。
外山 そうか。ぼくが知り合ってから後ですもんね、ココが結婚式場になったのは。
有川 95年以降はもう、結婚式がメインになった。
外山 たしか、ココで知り合ったカップルが、ココで式を挙げたいって相談してきて、その話に乗っかってみたら上手くいって……という話でしたよね?
有川 知り合ったんじゃなくて、最初のデートの場所で、プロポーズしたのもココだっていうカップルが現れたの。
外山 ぼくが知り合ったのは、ちょうどぼくが『SPA!』に出まくってる時期で、それを見て有川さんたちが連絡をくれたんですよ。……そういえばあの人、亡くなっちゃいましたね。有川さんたちが呼ぼうとしてた人。
有川 パトリック?
外山 ええ。
有川 亡くなったの?
外山 昨年だか一昨年だか(在日アメリカ人でDJのパトリック・ボンマリート氏は、93年、ゲイであることとHIVポジティブであることをカミングアウトし、94年から03年まで、エイズの予防啓発などをテーマとして『週刊SPA!』に連載を持った。13年4月、47歳で死去)。ぼくが初めて会った時、彼を呼んで何かイベントをやろうって計画を、有川さんたちは進めてたんですよ。
有川 ああ、そうだったね。だけどそのうち結婚式の仕事が忙しくなって、結局ウヤムヤになっちゃった。
外山 エイズ問題で啓発イベントをやろうとしてたわけだけど、とくに政治的な色が濃厚って感じでもなかったですよね?
有川 うん。“政治活動”という形ではなく、クラブ・イベントというか、パーティみたいなのに人を動員して、商業的にやる方向を考えてた。若者を集めて盛り上がれればいいなあ、ぐらいの。
外山 もともとクラブ文化とか、関心があったんですか?
有川 そういうわけでもないけど……たぶんあれだな、単に人を集めるのが好きなんだ(笑)。何かが集団化していく時のパワーが好きというか。だから“革命”を云々しても、革命思想がどうこうってことにはあんまり興味がなくて……(笑)。
外山 とにかく人がいっぱい集まって盛り上がるのが好き、と。
有川 政府を倒そう、体制を転覆しようっていうムーブメントそれ自体が好きなんであって、思想は右でも左でもいいや、っていう(笑)。倒せるんなら、どっちだっていい(笑)。そういう意味では私はノンポリですよ。

     ※     ※     ※

 

 

 インディーズ結婚式に宇城市長が大感激

外山 ……でまあ、95年以降、ココの業態は“結婚式場”に特化していき、その延長でやがて今日の本題の“ピラミッド”の話につながっていくわけですよね。
有川 結婚式でたまたま、新郎の父の友人として宇城市(熊本県中西部。地図参照。05年に宇土郡三角町、不知火町、益城郡松橋町、小川町、豊野町が合併して発足。人口約6万人)の市長が来た。
外山 すでに「宇城市」になってたんですか?
有川 うん。合併して、初代の市長。あれは06年10月ぐらいの結婚式だった。
外山 そもそもココの結婚式というのが、もともと平安閣だの何だの、大手のチェーン店系しかなかった熊本のブライダル業界を激変させちゃったんでしょう?
有川 従来のビジネス・モデルを破壊しちゃった。
外山 価格破壊も起こして……。
有川 うん。
外山 で、従来の式場ではなかなかやれない、お客様1組1組のニーズに合わせた……(笑)。
有川 そうだね。熊本のブライダル業界を、ある意味、破壊してしまったんで、相当恨まれてると思う。それで目の前(バイパスを挟んだほぼ斜め向かい)に、これ見よがしに新しい結婚式場を建てられたりしてるし(笑)。
外山 あれは従来の“大手チェーン”系の式場なんですか?
有川 ウチが一番打撃を与えたのは、たぶん貸衣装業界なんだ。ウチはタダで貸すからさ。貸衣装屋って、レンタル価格より安い値段でどこかから買ってきた衣装を高い値段で客に貸すっていう商売で、それは会社組織を維持していくためには仕方のないことなんだろうけど、客にとっては何らメリットのない、悪いシステムだよ。そこをウチが潰したもんだから、貸衣装屋が「孫子の代まで呪ってやる」ってウチを恨んでて、わざとウチの至近に自分たちの式場をオープンした(笑)。
外山 有川さんのとこは、自前で衣装をたくさん揃えてて、ココで結婚式をやるってカップルには無料で貸してるんですね。
有川 そうそう。結婚式1回、全部込みでいくら、というシステム。招待客からの1人2万円ぐらいずつの御祝儀で全部まかなえて、新郎新婦側が手出しで負担することなんかなくて済むぐらいの価格設定。たぶんココを始めた当時は、そんな式場は熊本には他になかったと思うけど、もはやそれが普通になってる。
外山 それは恨まれますね(笑)。
有川 貸衣装屋は壊滅(笑)。
外山 しかも、決まりきったフォーマットではなく、打ち合わせの過程で、1組1組のカップルの馴れ初めから、それ以前の双方の生育環境やら、家族関係やら、徹底的に聞き出して、当日の演出プランを練ってますもんね。大手の式場はそんな細かい対応、できないでしょう。で、結婚式を見た市長がまんまと感動してしまう、と(笑)。
有川 要は“イリュージョン”なんだよね。“言葉”はタダというか、コストがかからないわけだし、それぞれの新郎新婦の物語を聞き出して、それを言葉にして、あとはそれをさらに演出する“音楽”と“光”と“映像”と……。結婚式なんて、実際にやってることは単にコスプレした宴会なんだからさ(笑)。それをいろんな手法を駆使して“イリュージョン”に仕立て上げる。その“イリュージョン”を見ちゃったわけだ、市長は(笑)。
外山 で、しかし市長はその時、地元に大きな“問題”を抱えていた……(笑)。
有川 そうそう(笑)。

 宇城市ジャマイカ化計画?

有川 その結婚式が終わって、何日も経たないうちに公用車でやってきた。相談を受けたんだけど、最初は断ったんだ。でもあんまり熱心に口説いてくるから、「じゃあ1度、そちらに出向きましょう」ってことで、外山君も誘って一緒に行ったんだよ。
外山 あ、ぼくも一緒でしたっけ?
有川 うん。市長室に行ったじゃん。あの時が最初。で、市長を相手にプレゼンして、いきなり“ゲバラ”とか出してさ(笑)。(資料を探して)これがあの時に一晩で作った「ジャマイカ化計画」っていうプレゼン資料。
外山 そんなタイトルで市長にプレゼンしたんだ(笑)。……あ、ほんとだ、ゲバラも載ってる(笑)。
有川 “日本印度化計画”(筋肉少女帯の有名な曲のタイトル。オウム真理教もこの曲名を流用して「日本印度化計画社」なるダミー・サークルを各大学に立ち上げたりしていた)みたいなノリでね。テーマは“ジャマイカ”と“イビサ”だった。
外山 そもそも市長からの依頼はどういうものだったんですか?
有川 とにかく“何とかしてくれ!”ってことですよ、“ピラミッド”とか、それを含めてあの地域一帯を。
外山 “あの素晴らしい結婚式を実現する経営者なら、おらが町を再生してくれるに違いない”みたいな?(笑)
有川 最初は、やっぱり結婚式をやってほしかったらしいんだ。
外山 “ピラミッド”で?
有川 うん。だけどそんなのムリに決まってるじゃん、って話でさ。あんな不便な田舎に結婚式場をただ作ったって、うまく行くわけがない。砂漠の真ん中に結婚式場を作ろう、っていうのと同じなんだ。だけどまずラスベガスを作れば、そこに結婚式場をオープンすることだって考えられる。ディズニーランドだってそうだよ。あんなフロリダの、ワニとか出るようなところで誰も結婚式を挙げようなんて思わないけど(笑)、まずディズニーランドを作ればそういう人も出てくる。要はそういうことをプレゼンしたんだ。

 トンデモ前衛建築をバブル期につい次々と……

外山 あの市長は、そもそも“ピラミッド”を建設する過程に関係してたんですかね?
有川 そうだと思うよ。
外山 “ピラミッド”があるのは、合併前は三角町だったところでしょ。市長になる前は三角町の町会議員だか何だかだったんですか?
有川 いや、出身は三角ではあるけど……。三角は歴史的にいろいろあるらしいんだ。目と鼻の先の天草で、天草四郎の反乱があったでしょ(島原の乱。1637〜38年)。反乱を鎮圧した後、天草方面を監視するための出先機関が三角の辺りに置かれて、だから細川家とか、幕府中央ともつながってるような人たちが、その頃からずっといるわけだ。そういう人たちと、明治以後にあの辺に移り住んだ人たちとの間に微妙な対立があるらしい。明治になって(明治20年=1887年)三角西港が開設されて、近代化遺産の1つにもなってるように(15年、福岡県の八幡製鉄所や長崎県の“軍艦島”、山口県の松下村塾などと共に「明治日本の産業革命遺産」を構成する8エリア23ヶ所の1つとして世界遺産登録された)、重要な港湾として栄えたから、その頃から住むようになった人も多いんだね。京都で、応仁の乱以前から住んでる人と、以後に住み始めた人とで対立があるというのと似たような話かな(笑)。で、市長はあの辺の神主の家系らしいから、たぶん明治以前からいる人たちの側なんだろうね。市長になる前は参議院議員だったんだ。それも、細川(護煕・元首相)さんから引っぱられて出た。
外山 何て人でしたっけ?
有川 阿曽田(清)さん。新進党だか、日本新党だかで参院議員になってる(95年に新進党公認で当選。00年、任期中に辞職して熊本県知事選に出るが落選、05年に宇城市長に当選した)。
外山 細川の非自民政権が93年ですね。“ピラミッド”建設にはやっぱり……。
有川 絡んでると思うよ。完成したのは90年とかだし、計画はその前からだろうけど、少なくとも参院議員になる以前から地元の有力者の1人ではあるんだし(参院議員の前には県会議員を務めていたようだ)。
外山 要はバブル期に計画して……。
有川 完成するかしないかのところでバブルがはじけた(笑)。そもそも、それこそ細川が熊本県知事だった時代(83〜91年)に打ち出した“くまもとアートポリス”とかって政策(88年〜)の一環として計画されたんだよ。
外山 なんか、熊本じゅうに前衛建築をどんどん建てまくるという……(笑)。
有川 使いにくい建物をね(笑)。
外山 たしかあのヘンテコな熊本北警察署の建物もそれなんでしょ?
有川 重力の法則に逆らう建築なんだもん(笑)。あんな頭でっかちの建物を支えるんだから、建設費はすごいものだったでしょう。
外山 山奥にもヘンな橋がありますよね。深い谷に橋がかかってるんだけど、渡った先にはただ山肌があるだけっていう、単なるオブジェみたいな橋(笑)。
有川 あるある(笑)。ヘンなダムもあるし、あと、すげぇ住みにくそうなアパートもあるよ(笑)。熊本の結構あちこちにある。

 一応“フェリー発着場”だったのに航路廃止!

外山 で、問題の通称“海のピラミッド”(「三角港フェリーターミナルビル」)というのは、フェリー・ターミナルとして建てられたというか、元々あったフェリー・ターミナルを壊して、同じ場所に新築したわけですよね。
有川 だけど単にフェリーの乗船手続きをしたり、待合室として使うにはデカすぎるでしょ? 最初から、イベント施設としても使えるように、ってことだったと思う。
外山 どういうイベントを想定してたんでしょうか?
有川 それは、人が集まっていろんなことができるようにっていう……。
外山 具体的には?
有川 漠然としたイメージだけで、具体的なことはとくに考えてなかったんじゃないかな(笑)。
外山 とりあえず人目を惹くヘンな建物を作ろうっていう?
有川 いや、バブルがもっと続いてたら、さらに予算を投入して、それなりに面白いことを次々とやって、有意義な使い方もできてたのかもしれないよ。なのにせっかく完成したところでバブルが終わっちゃったし、自民党政権も崩壊して、政界再編で政策も安定しなくなったし……。
外山 無用の長物と化してしまう、と。
有川 “失われた20余年”と共に……。
外山 しかも……(資料を見て)あ、意外と最近までフェリーは出てたんですね。05年にフェリー航路廃止、ってなってる。これは島原(有明海を挟んだ長崎県)と結んでたんですね。
有川 その後も06年8月までは、中に売店があったんです。
外山 だけどフェリーがなくなったら、そこで店をやってる意味ないですもんね。それで店も撤退、と。
有川 06年の秋に完全に空き家になって、どうしたもんか、って頭を抱え始めてたところだったわけだ。
外山 で、市長が“イリュージョン”を見てしまう(笑)。“海のピラミッド”って、テレビの全国放送のバラエティでも叩かれたんじゃなかったっけ? バブル期の“負の遺産”呼ばわりされて……。
有川 典型的な“税金の無駄遣い”(建設費3億5千万円)の例としてね(笑)。
外山 まあ、そう云われても仕方がないよなあ。
有川 地元でも“うんこタワー”とか呼ばれてたし(笑)。
外山 “三角”って地名ともカケて、“巻き貝”をイメージして云々と公的にはアナウンスされてるけど……やっぱりマンガに出てくる“巻きグソ”ですよね(笑)。ただの円錐ならともかく、スロープがグルッと周囲に巻きついて、ますます、ねえ……。

 して“ジャマイカ計画”とは……?

外山 “ジャマイカ計画”っていうのは、さらに具体的に云うとどういう内容だったんですか? ぼくもその場にいたらしいけど、あんまりよく覚えてなくて(笑)。
有川 いやまあ、楽しいところにしましょう、っていう……。
外山 つまり単に“ピラミッド”だけではなくて、あのエリア全体を総合的に改造しちゃいましょう、ってことかな?
有川 うん。“観光立国”を目指しましょう、的な。
外山 ハウステンボスみたいにしてしまえ、と?
有川 ああいう単に巨大なハコモノではなくて、主に“規制を解除する”という方向で。
外山 “ナントカ特区”みたいなことが盛んに云われてた時期ですもんね。
有川 いろいろ提案したけど、まあ、とりあえず派手にイルミネーションで飾って、カジノを作りましょう、とか。ハコモノをわざわざ作らなくても、ほとんど使われてない建物とか、廃校になった小学校とか、行ってみるといろいろ面白い場所があったんだよ。そういうものをそのまま利用して、飾り立てて、あとはソフトウェアを注入すればいいんだっていう。
外山 たしかにいろいろあったような気がする。
有川 廃校なんかも、今で云う“民泊”の施設にしちゃえばいいんだ。ユースホステルみたいにして、若者をいっぱい集めてさ。人数さえ集めちゃえば、ムーブメントは自然に起きるんだから。空いてる建物はいっぱいあるんだし、どんどん開放して、若者たちに勝手に商売とか始めさせちゃえばいい。そういうことができる可能性があると思ったのは、天草に年間百万人の観光客が渡ってると云うんだよ。年間百万人が三角をただ素通りしてるんだ(風光明媚な観光地である天草諸島のメインの島へと渡る橋が、三角半島の突端、三角の中心地区の至近から架かっている)。ゼロから人をかき集めるのは難しいけど、そこで立ち止まらないだけで、百万人がもともとその場所を通ってるんだったら、何か面白いことをやって、そのうちのごく一部にでも足を止めさせるのは簡単なんだよね。
外山 逆に何もなければ三角で足を止める理由がないですもん。目的地は天草なんだから、仮に橋のところで小休止するとしても、橋のこっち側ではなくあっち側で小休止しますよ(笑)。
有川 唯一、へたに西港(“ピラミッド”がある東港とは別の、先述の“世界遺産”の港)にトイレがたくさんあるもんだから、あそこで休憩して、お金は落とさないくせに、オシッコとウンコだけ落としていく(笑)。
外山 踏んだり蹴ったりだ(笑)。
有川 だけど単にトイレ休憩のつもりで寄っただけだとしても、車からは降りるんだから、そこで何かヘンなことをやってれば、興味を惹かれるでしょう。珍しいものを売ってればお金を落とす人もいるし、西港でやることと東港でやることを連動させれば、天草に渡る橋へ曲がる角のさらに向こう側にある東港にも、少しは人が来るようになる。だけどそういうことを何もやってないわけで、だったら何かやりましょうよ、っていう話ですよ。

 “正しさ”や“社会正義”だけで世の中は変えられない

外山 (資料を見て)コレはまたさらに後に提案したものですか? 三角の海に怪しい戦艦大和が浮かんでるけど……(笑)。
有川 同じ06年の年末ぐらいにプレゼンした時のものだね。外山君と一緒に最初に行った2ヶ月後ぐらいか。
外山 “大和”はどこから出てきたんですか?(笑)
有川 『男たちの大和』(角川映画。原作・辺見じゅん。ちなみに主題歌は長渕剛)はいつだっけ?
外山 あ、いつだろう? この頃だったかな?(05年12月公開)
有川 たぶんそうなんだと思う。
外山 たしか呉(広島県)に「大和ミュージアム」っていうのができて云々って話を、当時の有川さんがよく引き合いに出してた気がする。
有川 うん。ミニチュアの展示であれだけ客を呼べるんだよ(05年4月にオープンした呉市の「大和ミュージアム」には10分の1スケールの模型が展示されて呼びものとなっており、オープンから約2年で累計3百万人、4年で同5百万人の来場者があったという)。だったら“1分の1”を作りましょうよ、って(笑)。
外山 それを三角港の沖に浮かべるんだ(笑)。市長が“大和”好きだったんでしたっけ?
有川 いや、関係ない。私もとくに好きなわけでもない(笑)。単にコンテンツとして……。
外山 基本的には保守系の市長だろうし、まず市長がチラッとでも話題に出したのかと思ってました。
有川 市長は『ワン・ピース』(アニメ)を誘致したいって云ってたんだよ。原作者(尾田栄一郎)が熊本出身らしいんだ。集英社と交渉しよう、とか云ってた。それで、そういう発想をしてちゃダメだ、って私が云って……。
外山 今どんなに流行ってたとしても、一過性のものですもんね。
有川 しかも著作権料がバカにならんでしょ。大和なんか、著作権フリーだもん、日本海軍は消滅してるんだし(笑)。コンテンツとしても百年は保つ。沈没から百年保つとして、あと30年はいける。実際はもっと保つでしょう。
外山 地域通貨の話もしてましたよね?
有川 うん。
外山 それも、よくある左派系の“反貧困”とか“反資本主義”みたいな文脈ではなく……。
有川 彼らは真面目すぎるんだ。地域通貨みたいなものを作るとして、それを本当に流通させるためには、人間の欲望に火をつけなきゃいけない。例えば射幸心を煽る、とか。
外山 カジノ構想と連動させよう、って話だったように記憶してる。地域通貨だけを使うカジノを作って、それがカジノ以外でも、地元でいろんな商品やサービスと交換できるようにする、みたいな。
有川 ベータより劣るVHSを普及させるために、エロビデオとセットで売りまくったような話だ(笑)。“正しさ”とか“社会正義”だけでいくら推しても、誰も地域通貨なんか使わないよ。

     ※     ※     ※
 いよいよ“海のピラミッド”再建に着手

外山 西港や“ピラミッド”(後註.「その3」有料部分で解説しているように、熊本県・三角半島の突端エリア。三角西港は、このインタビューで語られている一連の騒動後の、2015年に「明治日本の産業革命遺産」8エリア23ヶ所の1つとして世界遺産登録され、“海のピラミッド”はそのすぐ近くの三角東港に建っている)でいろんなイベントをやって、沖合数百メートルの島に巨大カジノを作り、その間の海に実物大の大和を浮かべ……というワケの分からない構想ですが(笑)、市長はどういう反応だったんですか?
有川 市長としては、うまく行くんなら何でもいいんだ。私の話も、すぐにそんな巨大事業なんか始められるわけないし、あくまでそういう壮大な方向性を念頭に置いた上で、とりあえず今の予算でやれることから始めましょう、ってことでしかないし。だけどそういう、夢が膨らむ大構想を前提に小さなことから始めるのと、ただ単に小さなことをチマチマやるのとでは、モチベーションから何から違ってくる。
外山 実際に“ピラミッド”に機材とか搬入して、いろいろ始めるのはいつからですか?
有川 06年のうちに、年末(12月23日)にまず“幻灯祭”ってのをやった。さっそく2千人ぐらい集まったよ。使った予算は30万円ぐらい。30万で2千人集めて、NHKも各民放もテレビで放送したんだから、“ピラミッド”のPR第1弾としては、ものすごく安上がりでしょう。
外山 具体的には何をしたんですか?
有川 “ピラミッド”の中にロウソクを並べただけですよ(笑)。
外山 資料の新聞記事を見ると、「ランタンで彩り」云々とありますけど……。
有川 外にランタンを百個ぐらい並べて、内側には小さいロウソク、1個10円ぐらいのキャンドルをバーッと。内側も円錐の壁沿いに一番上まで、螺旋状の回廊が据えつけてあるでしょ。
外山 外のスロープと比べて、構造的に怖いですよね(笑)。
有川 あそこにキャンドルを3千個ぐらい並べたんだ。
外山 ただそれだけのことで……。
有川 大してお金もかかってない。
外山 それでいきなり2千人も動員したら、市長も「さすがワシが見込んだ男ばい」と?(笑) 予算は市から出たんですか?
有川 九州新幹線(のち11年のまさに“3・11”に全線開業)関連の予算が国交省から県に下りて、それがさらに市に下りてて、その一部から出したみたい。
外山 単に“ピラミッド”を飾りつけるだけじゃなくて、それなりにイベントっぽいこともやったんでしょ? 新聞記事には、合唱団か何かの写真が載ってますね。
有川 聖歌隊かな。実はこの時のメインは、それこそ“結婚式”だったんです。
外山 それは本物の?
有川 たまたま地元の商工会に近く結婚するという人がいて、じゃあそれをこの日に“ピラミッド”の中でやっちゃおう、と(新聞記事によると、結婚式については事前の「幻灯祭」開催告知では一切触れず、当日のサプライズ・イベントとして挙行された模様)。市長は当初、あそこを結婚式場にしてほしいって云ってたわけで、それにとりあえず応えた形だね。

 一家心中事件で市長失脚!

有川 ……そもそも“ピラミッド”を建てた時の、使用目的の1つとして「さまざまなイベントに使う」ってのも入ってたわけで、それが単にフェリー乗り場としてしか使われてこなかったことがおかしいんだ。
外山 せっかく突拍子もない建物をドーンと建てちゃったんですもんね(笑)。
有川 本来想定されていたように我々は使っただけですよ。フェリー乗り場として機能していた時だって、何万人が利用するようなものでもなかったんだし、それだけのために使うんなら小さな事務所がポツンとあれば充分で、あんなバカでかい“うんこタワー”なんか要らない(笑)。やっぱりもっといろいろイベントをやって、町を活性化して、地域発展の拠点として機能するように、ってことが盛り込まれた設計のはずでしょう。だから我々が、まずは“正しい使い方”の例を、しかも大したお金もかけずに提示してみせたわけです。公務員ってバカだよな、ってことを証明したとも云えるんで、やっぱり恨みも買うんだよな(笑)。
外山 「余計なことをしやがって」と快く思わない人たちも、役人や有力者たちの中にはいたんでしょうけど、それでも阿曽田さんが市長でいる間は、そういう声を抑え込んでくれてたんでしょ?
有川 いや、ターニング・ポイントはもっと手前にあるんだ。三角港で一家心中事件が起きるんです。“ピラミッド”をいよいよクラブとして使い始めて1年ぐらい経ったあたりかな、それも資料にあるはずなんだけど……。
外山 ああ、これか。「三角港 家族7人乗り車 海転落」「2人死亡、4人も心配停止」「中学生男子脱出」と。
有川 現場は“ピラミッド”のすぐそば。……この話の何がヒドいって、心中の原因は税金の差し押さえだったんだよ。心中を思い立った父親は、車での移動販売の形で、たこ焼きとかアイスクリームとか売ってた人なの。だけど市税滞納で、宇城市がその移動販売用の車を差し押さえちゃった。商売道具を差し押さえられちゃったら、どうしようもなくなるでしょ。それで絶望したみたい。
有川 そういう経緯が分かると、マスコミが騒いで、差し押さえられた車の、車輪をロックされて使えなくされてる写真とかも流して、市の責任を追及し始めたんだよね。トップはやっぱり市長だから、市長が叩かれる。もちろん市長がそんな個別の案件についていちいち指図してるわけもなくて、現場の役人の判断で差し押さえしたんだろうけど、たしかにヒドい話だし、市の責任が追及されて、市長がその矢面に立たされるのは仕方ないんだけどさ。税金の苛烈な取り立てで、市民を殺しちゃったんだもん。ヤクザよりヒドいよ。全国ニュースになってたよ。まあそれで、市長が凋落する。
外山 発言力を失うというか……。
有川 政治力がなくなっちゃうよね。求心力を失う。いつの事件だったかな、クラブ営業を始めて1周年とかの頃。
外山 新聞記事には「二十六日午後八時五十分ごろ」とあるだけですが……。
有川 (別の資料を見て)これだこれだ、08年5月26日。亡くなった父親ってのが、実は我々の“ピラミッド”活性化にもいろいろ協力的だった人で、顔見知りでもあったんです。
外山 「亡くなったIさんはイベント開催にも好意的で、逆風の中、苦戦する僕らに『応援するからがんばんなっせ』と言ってくれる人達の中の一人でした。大規模なイベントの時にはたこ焼きを売りに来てくれました」って書いてありますね。そりゃあこういう商売の人なら、若者がいっぱい集まるイベントを三角みたいな田舎で毎週開催してくれるっていうのは大歓迎でしょう。
有川 そもそもクラブ営業を始める時に、市長室で市長に迫ったんだよ。「このまま何もしなければ、町はもっと寂れて、首を縊る人が出ますよ」、クラブ営業をやるって案を提示して、「で、やるんですか? やらないんですか?」と云って、まあ、脅したの(笑)。市長が「やる」って云うなら協力するし、やらないんなら我々は撤退するけど、死人が出ますよ、って。それが云ったとおりになったわけだ。しかも手を下したのは市役所だっていう形で。最悪だよね。実際、“ピラミッド”のイベントが軌道に乗れば周辺も活性化するだろうし、この人もすでにたこ焼きを売りに来てたんだもん。なのにその販売車を市が差し押さえちゃった。キチガイというか、外道だよ。

 「カネは出せないけど何かやってくれ」でクラブ開業

外山 資料によれば、クラブ営業の開始から1年ぐらい経ったところでこの心中事件が起き、だけどその数ヶ月後、08年の秋ぐらいから、何百人も集まるようなイベントがポツポツ出てくるようになりますね。……結婚式もやった「幻灯祭」の後、クラブ営業を始めるまでにはブランクもあるんでしょ?
有川 「幻灯祭」が06年12月23日で、2千人も集めたわけだし、やろうと思えば可能性があることは分かったでしょうって、いったん向こうに投げたというか、戻した。年末の地元の飲み会で、他にもいろいろアイデアだけ示して、あとは地元の人たちでやってみませんか、と。その場では「やりましょう」って話になって、「頑張ろう!」って一本締めとかしてたけど、しばらく経っても誰も動き始める人がいなくて、「またお願いできませんか?」って、翌07年の2月だか3月だか、市長がまた云ってきた。県にかけ合って予算を取るから、と市長は云ってたんだけど、結局県は出してくれなくてさ、最終的には「カネは出せないけど何かやってくれ」っていうムチャクチャな話だよ(笑)。で、こっちとしては消極的な選択として、クラブでもやるしかないだろう、ということになった。“ジャマイカ化計画”を全部やっちゃうには予算何千万とかでもムリだけど、クラブを開業するぐらいだったらね。そもそも“ピラミッド”の活用法として、音楽ホールにしたらどうですかって案も提示してたんだ。だけど音響とかを考えて本格的に改装するとなると、やっぱり数千万はかかるんだよ。クラブとして使える程度に改装するだけなら、そこまでの投資は必要ない。
外山 純粋に音楽を聴く空間としては、やっぱり使いにくいんじゃないかな。コンクリートのだだっ広い円錐状の空間だし、音が反響しすぎる上に、反響の仕方も複雑でしょう。
有川 うん。本格的に音楽ホールとして使うには、吸音板を設置したり、かなりいろいろやらなきゃいけない。
外山 そもそもやっぱり使いづらい空間なんだよなあ。なんであんなの作ったんだ(笑)。
有川 ただそこまでこだわらなければ、クラブ・イベントぐらいには使えるんだよ。音響にメチャクチャこだわる人とかだと「使えない」って云うだろうけど、逆にそういう人たちの中にも、面白いと思ってくれるような人もいなくはない。もちろん数千万の予算が出るなら本格的に改装するけど、カネは出さないって云うんだからさ(笑)。だったらこっちも提示できる案が限られてきますよ、クラブならやれますよ、と。クラブなら初期投資はせいぜい数百万、抑えようと思えばもっと抑えられるし、実際には百万ぐらいに抑えたかな。とにかく、「クラブだったらやるけど、どうしますか? このまま無策で町が寂れるのを放置して、人が死んでもいいんですか?」って市長を脅したわけだね(笑)。
外山 で、いよいよクラブ営業を始めるのは……。
有川 07年の6月23日。準備にかけたのは正味1ヶ月ぐらい。
外山 でしたよね。ぼくが都知事選をやって、熊本市議選をやって、一段落したぐらいのところで話が急に動き始めた印象。
有川 Sさん(クラブ営業の初期の中心的スタッフの1人。有川氏らが94年頃、エイズ問題啓発イベントを計画していた時にそのスタッフに志願してきたシステム・エンジニアの青年で、以来うっすらと外山とも面識があり、04年、外山が“2年間の獄中生活”を終えて出所する際に有川氏と共に外山を福岡刑務所まで出迎えに来てくれた3人のうちの1人でさえあるのだが、まもなく今度は入れ替わりに、ネットを使った詐欺事件でフツーの刑事犯として逮捕され、外山もその刑を軽減させるために裁判過程での諸々の工作に奔走した)が出所する時、小倉の刑務所まで一緒に迎えに行ったでしょ? 現場の仕切りを任せられる、しかも当面ヒマな人が身近に帰ってきたわけだし(笑)、あそこからが本格的なスタート。
外山 ああ、あれが07年の5月ぐらいでしたっけ? だけどその後すぐ今度はぼくが原付の交通違反で捕まって、Sさんとシャバで会う機会が少ないなあと思った(笑)。“ピラミッド”をクラブにする計画が本格的に進む過程で6月中旬に捕まって、ちょうど1ヶ月ぐらいして釈放されて出てきたら、もう営業が始まってたんだな。
有川 だからやっぱり準備も1ヶ月ぐらいだったんだよ。“墨俣一夜城”みたいに、突貫工事であの巨大なクラブを誕生させた(笑)。予算も少ないし、人員も少ないのに、我ながら感心だ。

 “話が違うじゃないか”ってことばっかり

外山 それからは毎週のように開けてましたよね?
有川 毎週土曜日にやってた。オープニングの日は、さんざん宣伝も打ったし、フェリー廃止で今後が危ぶまれてた建物がクラブに生まれ変わったというんでマスコミも取り上げたし、150人ぐらい来たね。だけど毎週続けてると、そうすぐに軌道に乗るわけでもないし(資料によれば、07年中は、稀に百人を超えるものの、だいたい40〜80人の間で推移している)、いろいろ風当たりも出てくる。文句を云ってくる連中って、要は“総論賛成、各論反対”みたいなことなんだよな。
外山 どういう文句を云ってくるんですか?
有川 やっぱり夜中じゅう音を出してるし、“ピラミッド”の界隈を若者が徘徊するようになるし、市役所に苦情を云ってくる奴もいるんでしょう。
外山 夜中まで音を出す、というのは?
有川 防音工事はしてるから、音よりも、夜中にヨソから来た若者がウロウロしてるってことの方だろうけどね。とにかく公務員は、メンドくさいことをイヤがるんだ。さっきの、結局心中しちゃったような人は、何かやって地元に人を呼んでほしいんだよ。だけど人が集まれば問題が起きるかもしれないし、何も起きなくても、起きるかもしれないと不安を訴える奴も出てくる。何もしなきゃそういうこともないわけで、公務員は何もやらないことを良しとするんだね。……住民にも温度差があるでしょ? 地元で商売をやってる人は、地元に人が来てほしい。だけど単にベッドタウンとして三角に住んでて、仕事は熊本市とか、都市部に働きに出てる人にとっては、地元は静かな方がいいし、ましてヨソから得体の知れない若者たちなんか呼び寄せてほしくないわけだ。“地元を活性化させましょう”ってことに反対する人はいないよ。でも具体的に何かをやり始めると、それが何であっても誰か文句を云う奴が出てくる。そこらへんの利害を調整することなんか不可能で、力を持った奴が反対意見を抑える以外に解決法はない。やっぱり民主主義はダメなんだ。一種の“開発独裁”みたいなことをやらないと、みんなの意見を聞いてどこからも文句が出ないようにしてたら、何もできない。
外山 「入場無料」って書いてありますけど、運営費はどうやって賄ってたんですか? 市からは援助がないんでしょ?
有川 1銭もない(笑)。入場は無料なんだけど、ドリンクを1杯5百円で売ってて、それで運営してた。スタッフの人件費なんかも、全部ドリンク代で賄ってる。
外山 つまり形式的には、“海のピラミッド”という公共の建物に、テナントとして有川さんたち民間の業者が入ってクラブを運営してるような体裁になってたんですか?
有川 それも当初は「タダで使っていいよ」って話だったんですけどね(笑)。たしかに最初のうちはタダで使ってたけど、すぐに「やっぱり使用料を払ってくれ」って云い出して……。
外山 “話が違うじゃないか”ってことばっかりだ(笑)。そもそも向こうから「町のために一肌脱いでくれないか」みたいな話だったはずなのに、いざとなると予算は出さないわ、逆にカネを払えと云い出すわ……スタッフも全部こっちで揃えて、回転資金もドリンク代で自力救済、と。
有川 うん。
外山 それでもとにかく毎週やっていくわけですね。
有川 しばらくは、少ない時は20〜30人の時もあったけど、続けてれば認知もされるから、そのうち「使わせてくれ」って云う有名なDJも出てきたりするんです。実際、かなり変わったハコであることは確かだから、興味を持つ人はそりゃ出てくるよ。
外山 最初のうちは、“有川さん選曲”ですか?(笑)
有川 そういう時もあったし(笑)、まあ周りの、DJをやれる人に頼んだりしてました。入るDJによって当然、音楽ジャンルも違うし、ヒップホップだったり、レゲエだったり、トランス、テクノ系だったりする。集客もそれぞれ違うよね。
外山 オープンから約4ヶ月目の、07年10月13日以降は毎週、イベント名がついてますね。この頃から、本職のDJが入り始めるのかな?
有川 年末にはもう、貸し切りというか、そういう人たちに完全に任せる日がほとんどになってた。

     ※     ※     ※
 クラブ“海のピラミッド”は大繁盛

外山 変わったハコがある、というので「使わせてくれ」ってケースが増えるのがこの頃(07年秋頃)から、と?
有川 しかも彼らから場所代なんか取らないしね。もちろん貸し切りの時も入場無料だけど、売り上げが多かった時はDJたちにも謝礼を出してたぐらいで。
外山 イベントをやりたい人たちに、それぞれ集客してもらって、こっちはドリンクだけ売って維持費を賄っていく……。最大でどれくらいの集客があったんですか?
有川 650人以上来た。09年6月の、2周年の時。……リーマン・ショックが08年9月でしょ。いよいよ経済的にヤバい状況になるぞと思って、本腰を入れ始めたんだよな。
外山 08年10月25日に「レゲエ祭」っていうのをやってますね。
有川 それはかなりいっぱい来た。
外山 400人と書いてあります。
有川 で、翌09年3月にまず“2周年”の第1弾イベントをやって、これも500人来てるし、さらに6月の第2弾に、さっき云ったように600人以上来たんだな。それだけ来れば、一晩で百万円近いドリンクの売上があるよ。
外山 08年5月に例の一家心中(「その4」参照)があって、それを機に(有川氏らの後ろ盾となっていた)阿曽田(清)市長が半ば失脚し、だけどむしろそれ以降に“クラブ・ピラミッド”は軌道に乗る感じですね。
有川 最初の1年は、市役所とか警察とか、役人との攻防にエネルギーを割かれてたって側面もあるんだ。その過程でいろいろ軌道修正もせざるを得なかったし、単に“ピラミッド”の存在がDJの人たちの間に広まるのにそれぐらいの時間が必要だったということもあるでしょうね。だけど心中事件のあったオープン1周年の頃にはすでに貸し切りがほとんどになってたし、最大動員は2周年の時だけど、それ以降も百人ぐらいのイベントはそう珍しくなくなるよ(目立つところでは、09年7月26日・250人、10月31日・350人、10年2月27日・300人、6月12日・200人、6月26日・330人、7月24日・200人、10月9日・320人、12月31日・300人、11年2月19日・320人、8月27日・300人、12月10日・250人、など)。
外山 ハコとして認知されて、定着さえすれば、交通の便としては“良いような悪いような”っていう、少なくとも“最悪”ではないわけですからね。
有川 遠いことは遠いけど……。
外山 熊本市から30キロか40キロあるのかな? だけど熊本駅始発で三角行きの列車が出てるから、余裕で坐れて、ちょうど1時間ぐらいただ電車に揺られてれば、乗り換えもなく三角駅に着く。着いたら目の前に“ピラミッド”が建ってる(後註.「その3」の地図参照)。
有川 徒歩1分ですよ(笑)。
外山 1分というか、狭い道路を挟んで駅の真ん前に建ってるだけじゃないですか。1分って、“ピラミッド”の駐車場を横切るのにかかる時間でしょう(笑)。
有川 どうせ朝までやってるんだから、始発に乗って帰ればいいし、車で来るにしても、何人かで車内で喋ってるうちに着いちゃう距離ですよ。

 県の建物にケバラだのマルコムXだのレーニンだの

外山 あれは最初からですよね、“ピラミッド”の入り口の大きなガラスのところにゲバラだのマルコムXだのレーニンだの、肖像が貼られてたのは(笑)。
有川 レーニンは貼ってなかったと思う(笑)。
外山 そうかなあ。
有川 ゲバラは貼ってたけどさ(笑)。だけどそれも最初からじゃないと思うけど。たしか役人と揉めてるうちに先鋭化してきたんだよ(笑)。
外山 ゲバラは最初からあったような気がする。
有川 そう? ……あ、そうかも。“占拠したよ”っていうメッセージだな(笑)。
外山 誰に向けてのメッセージなんだ(笑)。“ピラミッド”の所有者は県でしたっけ?
有川 うん、熊本県の所有。
外山 県の建物にゲバラ(笑)。レーニンとマルコムXはどこで見たんだろう? DJブースに貼ってあったのかな?
有川 「アジト」(有川氏が経営する熊本市内のバー)の外壁には貼ってあるよ。
外山 いやいや、“ピラミッド”にもあったと思う(笑)。肖像だけじゃなくて、それっぽいスローガンも、建物の中だけだったと思うけど、いろいろ貼ってあった。「想像力が権力を奪う」系の(笑)。
有川 うーん……どうだったかなあ(笑)。でもそれは、それこそ本格的に揉め始めて以降だよ。
外山 心中事件後にむしろ動員は増えてるけど、結果を出してるわけだから、やりやすくなったんじゃないんですか?
有川 いや、一応こっちの味方だった市長が力を失うんだから、やっぱりやりにくくなる。あれ以前は、それこそ“開発独裁”的に反対意見を抑え込んで、指導力を発揮する人だったんだ。それがああいうふうにコケちゃうと、公務員のバカどもがああだこうだとグジャグジャ云い出して、もう収拾がつかない。
外山 ゲバラの写真とか貼ってあることに関しては何も云われなかったんですか?(笑)
有川 いや、とくに何も(笑)。
外山 ゲバラがどういう人なのか、そもそもゲバラの写真を見てもそれがゲバラだとは、田舎役人は分からないのかな?
有川 分かってても、直接それを問題にはしにくいよね。ただ、そういうところも含めて“お上にタテ突く”ような姿勢にはガマンならなかったと思う。しかもただ吠えてるだけなら向こうは痛くも痒くもないけど、市外どころか県外からも若者を毎週たくさん集めて、“結果”を出しちゃったことがますます許せないんでしょう。だから最終的には追い出された。

 最終的に負けた原因は結局“3・11”

外山 阿曽田さんは次の市長選に負けて、舞台から消えちゃいますよね。あの選挙がいつですか?
有川 それも資料にあると思うけど……09年2月1日だ。
外山 “ピラミッド”の動員としては、むしろ勢いに乗り始めてる頃でしょ?
有川 最大動員もこの市長選より後だもんね。まず1ヶ月後に500人動員があるし。
外山 せっかく上手くいき始めてるのに、それはやっぱり新しい市長にとっては面白くないんだ?
有川 うん。だけどこっちに勢いがある間は、まだ手を出せない。最終的に負けた原因は、結局“3・11”なんだ。クラブ運営どころじゃなくなったし、そもそも若者も含めて世間全体が、クラブでバカ騒ぎするような雰囲気じゃなくなっちゃったし。
外山 最後の頃の中心的なスタッフだったKさんが、東日本からの避難者の受け入れ活動に力を入れ始めて、有川さんもそれを積極的に支援してましたもんね。たしかにクラブどころじゃなかったでしょう。
有川 “3・11”が起きなかったら、たぶん今でも“ピラミッド”は続いてた可能性が高い。とにかくこっちが勢いを失ったところで、向こうがワーッと攻勢をかけてきて、潰されたわけだ。
外山 宇城市役所から退去通告が出たのが11年11月と資料にあります。
有川 勢いを失って約半年後ってことだね。
外山 出て行けという理由は、向こうはどう云ってたんですか?
有川 3・11より前に、Kさんの他にもう1人、また新しく強力な仲間が現れたんだよ。東京の新木場にある「アゲハ」っていう日本最大級のクラブでサウンド・エンジニアをやってた人が、リーマン・ショックの後、東京の景気も悪くなったんで、もともと熊本の人だし、こっちに帰ってきてたの。その人と10年の年末ぐらいに知り合って、“ピラミッド”の運営に関わってもらうことになった。で、年明けぐらいから、その人の指揮で音響システムの改修工事を進めてたところに、3・11が起きたんだけど、役所はその改修に文句をつけてきたんだ。改修と云っても、あの建物はそもそも段差が多いし、そこにマーキングして安全対策をより充実させるとか、あとオープンから3年以上経って当初の応急処置的な防音設備にもガタがきてたから、それをやり直すとか、そういうことだよ。
外山 たしかに不当な云いがかりですね。
有川 他に云ってきたのは、イベントの準備のために前日から作業に入ったりすることを「申請日以外の使用」だとか、スピーカーその他の設備をずっと置きっ放しにしてるのはケシカランとか……あれだけの設備をイベントのたびに毎週すべて搬入してまた撤去しろなんて、そもそも物理的に不可能な要求だよ。そんなことを使用条件にされるんならクラブなんかやらないし、最初から云えよって話でしょう。
外山 使い道に困ってる施設があるから何とかしてくれ、って話に乗って協力した結果、そんなことを云われたら腹が立ちますよね。
有川 だってこっちは、設備は置きっ放しにせざるを得ないけど、他のイベントに使う時にはそのまま使ってもらっていいですよ、って役所に話を通してあったんだから。向こうの云いぶんは屁理屈、云いがかりの類で、要は理屈はどうでもよくて、「とにかく出ていけ」ってことです。

 世界遺産登録の障害物?

外山 仮に出て行ったとして、役所側は“ピラミッド”をどうするつもりなんでしょう? 資料によれば、「またフェリーの待合所に戻す」とも云ってたそうだけど、実際その後、どうなってるんですか?
有川 知らない(笑)。
外山 待合所に戻すとか云っても、まずフェリー航路を復活させなきゃいけないでしょう(笑)。
有川 いや、フェリーは天草と結ぶやつがその後また始まったんだよ(09年4月)。だけど前のフェリー航路があった時に三角港の岸壁に据えつけられてた、車をフェリーに積み込むための橋もなぜか取り壊されちゃってるし、いま就航してるのは人だけを運ぶフェリーだけどね。
外山 じゃあまあ、待合所に戻すって云いぶんは、形の上では成り立つのか……単に待合所に使うにはあまりにも無駄すぎる大建築だけど(笑)。かといって、他に何か有効な使い道があるかというと、たぶん何もないもんなあ(笑)。
有川 だってあそこ、構造があまりにも特殊で、エアコンも効かないんですよ(笑)。夏はスタッフが熱中症になったもん。そのエアコンも我々が入れた設備だから、追い出しの時に取り外されたはず。
外山 そもそも使い勝手の悪い建物だけど、仮にイベントに使うにしても、松橋(宇城市庁舎も建っている、合併前の元の5町のうち最も都市化していたエリアで、福岡・熊本・鹿児島を結ぶ幹線道路である国道3号線沿いに位置する)ならまだしも、三角じゃそもそも地理的に人を集めにくいし、コンテンツもそうそうないですよ。
有川 幹線道路から外れたところに集客するのは、ただでさえ大変。
外山 せっかくその難題をクリアして、かなり遠方からも若者たちが通うようになってたのに、なんでやめさせちゃうんだろう。
有川 単に気に食わないんでしょう。おまえら公務員は無能だ、って証明しちゃったんだし(笑)。たいしてカネも使わずに、実際に三角に人が来るようにしてみせたんだから。……あと、世界遺産登録の話が現実味を帯びてきて、実際に登録されて、それでJRも観光列車を走らせることになって、そっちの文脈で三角に来る人が増えるかもしれないと彼らが期待したということもあると思う。
外山 いやあ……(笑)。
有川 まあ、あちこちに散らばってる“近代化遺産”の1つとしての登録だからね。単独で世界遺産になったんならともかく、軍艦島とか松下村塾とかの超有名スポットをいくつも含んでる20数ヶ所のうちの1つでしかない。
外山 そりゃあみんなまず軍艦島とかに行きたいでしょう。わざわざ“三角西港”を見に来るのは相当なマニアだけですよね。なんでそれぐらいのことが分からないんだろう。
有川 ただ、世界遺産に登録されると、中央から予算が下りるんだ。結局はそういう利権でしかないんだけど、県庁や国の役人が以前より三角に来る機会も増えるよね。なのに三角駅で降りた途端にワケの分かんない連中に占拠された巨大建築物が目の前にあるのは、都合が悪いよ(笑)。
外山 ますます邪魔になった、と。

 強制代執行!

外山 ……最終的に追い出されるのはいつなんですか?
有川 行政代執行は退去通告の1年後ぐらいだったかなあ(12年11月12日)。
外山 ……三里塚闘争みたいでカッコいいですね(笑)。
有川 名誉なこと(笑)。
外山 要するに行政側が業者を呼んで機材とかを全部運び出した……。
有川 そうそう。トラックを横づけして、かなりの態勢でやって来たよ。
外山 で、運び出されたものはどうなったんですか?
有川 県の倉庫に保管してたみたいだけど、レッカー移動された時にレッカー代を取られるのと一緒で、運び出しの費用を後で全部請求されるんだよね。口座を差し押さえられて、強制徴収された。
外山 機材は戻ってくるんでしょう?
有川 返せと云えばね。だけどあれだけ膨大な機材を持ってきたところで置き場に困るだけだし、そもそも運送費用も向こうが負担してくれるわけないんだから、取りになんか行かない。代執行から1年ぐらい経って、競売にかけられたんじゃなかったかな。全部で10万円ぐらいで、誰かが引き取ったみたいだよ。……代執行の費用が百万円、保管費用と合わせて二百万円近く取られた。
外山 ヒドい話だ。そもそも向こうから頼まれて“税金の無駄遣い”でしかないハコモノを有効活用してたのに、市長が代わると云いがかりをつけて追い出して、カネまでむしり取る。
有川 まあ、革命の暁に取り戻せばいいよ(笑)。
外山 裁判にする、と云ってませんでしたっけ?
有川 3・11以降、避難者受け入れとか、反原発関係とか、いろいろやってたし、景気が悪いから本業にも力を入れなきゃいけなくなって、裁判にまで手が回らなくなった。それに裁判所だってどうせ行政の仲間だし、裁判で勝つことを期待するより、革命勝利の可能性に賭けた方がよっぽど現実的だ(笑)。
外山 革命の暁には裁判所も処罰しないといけませんね。
有川 革命政権は裁判とかしないで処罰(笑)。

 “スクウォット”闘争は丸5年間に及んだ

外山 向こうが“不法占拠”という言葉を使ってるから、こっちもその言葉を使うのはちょっとアレな気もするけど、まあ今となってはそう云っちゃってもいいですよね(笑)。公共の建物を好き放題に使って、ゲバラとか、革命のアイコンを掲示しまくって、07年から11年まで、ほぼ丸5年間も“スクウォット”をやり通したっていう、稀有な事例だと思うんです。日本の左翼学者どもが、外国のスクウォットの事例をあれこれ褒めそやしたりしてるけど、日本でごく最近そんなことが起きてたってことを単に知識として知ってる学者すら、ほとんどいないでしょう。ほとんどというか、1人もいないかもしれない(笑)。
有川 それこそヒトラーが選挙で政権を奪ったみたいに、少なくともある時期までは市の黙認のもと、いわば“合法的に”占拠してたんだもんなあ。
外山 やっぱり単に新しい市長が、前の市長がやったことの名残りのように、市長交替後も“ピラミッド”でのクラブ運営が続いてたことが気に入らなかったんでしょうね。
有川 阿曽田さんのやったことで、ウチが唯一目に見える形で残ってたわけだから、そりゃあシャクだったでしょう。しかも町のシンボルを占拠されちゃってるんだからさ(笑)。
外山 とはいえ、あのヘンな建物をどうしたもんか、もともと行政側も困ってたんじゃないんですか? 阿曽田さんだけが問題視してたわけじゃないでしょ?
有川 でも、最初の「幻灯祭」の時から行政の内部で対立があったんだよ。“税金の無駄遣いだ!”ってもともと槍玉に挙げられてる案件だからこそ、逆にそこにますます注目を集めるようなことは……。
外山 ヤブヘビだって発想になっちゃうのか。
有川 そういうのは主に県庁の官僚。せっかく幸い僻地にあるのに、わざわざそこにスポットを当てるようなことをしてほしくないんだ。だけど地元としては、駅前にあんな巨大な廃墟があるのは困るじゃないですか。町のど真ん中に県の妙な政策でヘンな建物を作られて、挙げ句に廃墟になって放置されてる。何やってんだ、って話になりますよ。だから行政の中にも、三角に近い人たちと県の中央の役人たちとで対立があるし、それはとことん非和解的な対立だと思う。どっちの意見が通るかは、その時の力関係次第。
外山 前の市長は、県庁の役人とケンカできたのかな?
有川 やっぱり元国会議員だから、いろんなパイプもあったんでしょう。だから前の市長にまだ勢いがある時は、不満を持ってる連中はただ燻ってたんだけど、失脚しちゃうと今度はあっちが盛り返してくる。
外山 だけどせっかく軌道に乗っていたものを……。
有川 だってもともと余計なことは何もやってほしくない人たちなんだもん(笑)。何かをやれば、失敗する可能性も当然あるでしょ? 何もやらなければ失敗することもない。何もやらない連中は、何かやる連中が失敗するのをただ待ってて、ちょっとでも問題が起きたら引きずり下ろせばいいんだから、ラクなもんだよ。そうやって何もやらない連中が常に最終的に勝利して、権力を握り続けてるからいつまで経ってもこの国はダメなんだ。『下町ロケット』にもそういう管理職が出てきたよね。「何かやれば失敗する可能性がある、だからオレは何もしないんだ」って云ってた。そういう奴が出世するようなシステムになってる。何かやって失敗したらワーワー云われるけど、いわゆる“不作為”の責任は問われないような社会だもん。何にもやらない無能な奴がのさばる社会。
外山 “ピラミッド”をクラブにしたのが気に食わないとしても、廃墟に戻しちゃうんなら、ほんとに……バカですよね(笑)。
有川 バカなんだよ(笑)。
外山 たしかに有川さん特有のヤバい電波を出してたし(笑)、公共の建物に似つかわしくない意匠もいっぱいあっただろうけど、どうせ他に使い道も思いつかないんなら、いっそ“接収”でもした方がまだマシでしょう。設備を丸ごと市が買い取って、いくらか“健全”な飾りつけに改装した上で、市の事業として“クラブ・ピラミッド”を引き継いじゃえば、日本じゅうから注目されましたよ。
有川 だけどさっきもちょっと云ったように、世界遺産に登録されたから、それなりに予算は下りるわけでしょ。何もせずにカネだけもらえればいいって連中からすれば、カネもかけずにああいう廃墟を有効活用するアイデアを出して、しかも実行しちゃうような連中が、やっぱり一番邪魔なんだ。そいつらのせいで、おまえらはカネだけもらって、なんで何もしないんだ、って云われちゃうもん。だからあいつらは、そういう連中の足を引っ張ることだけを考える。まあ、そういうバカなメンタリティの積み重ねで日本はもう限界まで来ちゃってるし、もうすぐこの国は壊滅するでしょう。
 〈完〉

海のピラミッド/CLUB PYRAMID
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